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特集記事アーカイヴ Issue 2001.09-10

エレメンタルな・・・

text: 究極Q太郎

ぼくが『現代詩手帖』7月号に書いた「芸術における徒党よ、ばんざい」という文章について、多少なりとも反響があったのは良かった。けれど、舌足らずな書き方をしたところがあって、そのへん誤解を招いてしまったふしがあるので、この場を借りて若干の補足訂正をさせてもらいたい。

ぼくが何を書いたかということは、あの雑誌を読んで頂く(図書館なんかにバックナンバーが置いてある)ということで省く。だが、既にそれを読んだ人の中にこんなことを言う人がいた。

「たしかに、一部の詩の朗読の中には学芸会みたいなのもあるけれど・・・」。ああ、ぼくが言いたかったことは、そういうことではないのだ。

朗読に巧拙や優劣があるなんてことを言いたいのではなかった。そもそも現代詩は、そんなふうに評価を問えるようなジャンルではない。見かけの出来の良し悪し、または前提的に考えられている趣味の好悪など取るに足らぬとさておいて、どれだけ果敢な企図が、そこにむかって投げられているかということが問われるようなジャンルではないか。

そういった意味でも、巧いというよりはインタレストな詩の朗読に、ぼくは立ち会いたいし、これまでに幾度か際会したことはある。たとえばぼく自身が「あかね」という飲み屋で主催していた朗読会には、いろいろ覗いてみた他の朗読会に比べても果敢な表現が揃っていたように思う。

その一人すなふきんは、精神病院を出たり入ったりしている所謂「病者」であるが、十代の頃より薬を常用し続けてきたため舌の回らなくなった口で、彼が置かれたきびしい境遇をネタにしたおかしな詩を発表している(『ペエペエ教団』という、ぼくらが発行している雑誌の最新号に彼へのインタビューが載っている)。

だから、あのぼくの文は、一概に朗読会を「学芸会」として否定するものなんかではなかった。むしろぼくが述べたかったことは、現に今いたるところで催されている朗読会に、なにがしか可能性はあるとしても、それが刺青のスジ彫りのように薄く孤立した、その場かぎりの線でしかないなら、強くなぞって鮮明にする「もうひと押し」を加えなければ、不毛な「学芸会」へとまぎれてしまう(クリカラ紋紋は浮かばれない)という危惧だった。そしてそこにおいて、詩の出来栄えや朗読の巧拙なんかが問題にされ、あるいは朗読者個人のキャラ立ちぶりが面白がられているかぎり、未来はなさそうに思われる。

よくある朗読者の感性に裏づけられた朗読というものが、おおむねただの紋切型であるのは、ぼくたちの「感性」なるものが、耳障りの良い心地よさにばかり落ち着きたがって、そんなふうに安易だからだ。ふつうそういう安易さが「素朴」というふうに呼ばれているが、逆に「素朴さ」を、むらみやたらな仰々しさを削いでいく過程の中で、獲ちとられなければならないものとみなす人もいる。

たとえば、パウル・クレーは、「幼児の絵の模倣じゃないか」という非難に対して、そうした幼児性は、あるがままにあることによっては得られず、人間存在のエレメントとでもいうべきものを、丹念に選り分ける作業によってしか得られない、というふうなことを述べている(造形芸術についての彼のテクストは、その細心さをよく表している)。

『現代詩手帖』に書いた文の中で、本当に舌足らずだったところは、素朴実在論をすなわち「素人」というふうに結びつけた箇所だった。だからここをまず訂正したい。

つまり、素人はかならずしも安易な素朴実在論者ではない、ということである。それとは対照的に、エレメンタルな、かちとられるべき存在としての「素人」があり、ぼくたちがそこに置かれている社会の厖大な仰々しさ事大主義に対して、ここ半世紀ばかりの目敏い芸術家には、まさに「素人になる」ことを企図した果敢な実践者の系列がある(ゴダールは「アマチュア」を自称し、ジョン・カサヴェテスは、彼の協働者たちとともに悪戦苦闘しながらそれを行った〜『ジョン・カサヴェテスは語る』参照)

たとえば、ジョナス・メカスは『映画日記』の中でこんなことを述べている。「失敗、ピンボケ、ぶれ、あいまいな構え、はっきりしない動き、露出過多や露出不測などでさえ、ヴォキャブラリーの一部である。ドアは偶然性にむかって開いている。古くさい、横柄なプロ意識の腐れ切った空気は、どんどん外へ流れ出ている。

古い、小器用な世代が重大と考えていることがらを、新しい芸術家は、とるに足らない、大げさな、退屈なことだと思う――もっとはっきり言えば、不道徳なことだと。

彼は小さな、とるに足らぬ二次的なディテールに、より多くの生と「重要性」を発見する。生を垣間見せ、より大きな刺激と美をもたらすものは、ささいなもの、はかないもの、偶然のもの、過ぎゆくものである」。

ぼくは、この文章は斜めに眺められてみて意味を発揮するものだと思う。なぜなら、横柄なプロ意識がある一方で、横柄な素朴実在論もあり、それによって事態はいささか複雑になっているからだ。つまり、何かの仰々しさをなじる口吻が、そのまま安易さに居直ることでしかないということはよくあることだ。

けれども、メカスの方法論は、これが提出された三十余年前に劣らず現在もまだ依然として有効なものに思われる。とりわけ現代詩というジャンルは、いまや横柄な専門家意識によってにっちもさっちも行かないように見える。そしてそれを打破するためになにかが必要とされている。それが、「ありのままのわたし」の感性なんかでないことは言うまでもないだろう。求められているものは・・・。

いつか、ぼくは人の付き添いで、ある精神病院へ行ったことがある。そこは大学の敷地にありながら、かつての反精神医学闘争の名残りで「自主管理」を標榜する病棟だった。そういう訳でもなかろうが、廊下には油性ペンで医者を揶揄するような落書があったり、半紙に詩のようなものが書かれ、でたらめに貼られたりしていた。その中にぼくは、誰の物とも知れない一編の詩を見、すぐに気に入った。そうして手帳に書き写したのだ。十数年前のその詩は、こんなふうだった。

遠く
雁の群れが飛んでいる
その一団の飛翔の中には
たえず何かが弾け
たえず何かが爆発している
血のような収穫の日の残照
さかさまに
大地が天に映える

実はこの詩は、小野十三郎の『群雀』を一部書きかえただけの物だったが、ぼくは最近までそのことを知らなかった。たまたまその詩集をめくってみたとき、オリジナルがあるのを発見してびっくりした。

たしかに「群雀」のほうが、Vの字形を守ってゆく雁の、静かにスライドしていくような飛行よりも「たえず何かが弾け 爆発している」という語にふさわしく、けたたましい帯状のうねりであるだろう。けれども、最初この「雁」の詩を眼にした時、ぼくは、遥かな空中で起こった無音の爆発を皮膚に感じた気がした。あるいは時どき、心臓の血がボコッと気泡を吐くような空耳を。

アントナン・アルトーの『ヴァン・ゴッホ――社会が自殺させた者』と同じような感動を受ける、こんな詩をこそ「エレメンタルな・・・」とは言うのではないか。事実それは、たまたまの拾い物にすぎなかったのだ。

究極Q太郎
廃人餓号とともに95年よりほぼ毎月、詩の会(学習会)を主宰し、ミニコミ『ペエペエ教団』を発行。98年秋より早稲田にある飲み屋「あかね」で朗読会を主宰(現在休止中)。私家版詩集に『究極マニア』『ラヴ、アイリス、そしてライフ』『おれたち愚劣な俗物〜革命詩集〜』『歯の浮くような過激な言葉』。だめ連本『だめ』(河出書房新社)に「究極Q太郎の詩」という謎のコーナーがある。


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